1871年の琉球島民殺害事件にたいして薩摩藩出身者を中心に台湾出兵が建言され、征韓論派の下野の後政府は内務卿大久保利通の主導のもと1874年台湾蕃地事務長官に大隈重信、同都督に陸軍中将西郷従道を任命して出兵準備をさせた。兵力は二個大隊であり、うち鎮台兵は一個大隊で残りは「植民兵」として薩摩など九州各地の士族で占領地永住を前提に募集・編成されたものであった。[6] しかしイギリスやアメリカの反対意見と局外中立の表明および征韓論にも反対していた参議木戸孝允の反対と辞任により政府は派遣中止を決めるが、西郷が5月2日征討軍を長崎から出航させると大久保もこれを追認し、7月1日には日本軍が台湾南部の事件発生地域を占領することとなった。日本軍は先住民の村を焼き払うなどし、日本側の戦死者は12名であったが、年末までの駐屯でマラリア等による病死者が500名を超える事態となった。
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これは近代日本初の海外出兵であったが、清側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。明治政府は交渉決裂の場合の清との開戦も決し、9月「和戦を決する権」を与えられた大久保が全権大使として北京で交渉し、難航の末イギリスの仲介もあり清は日本の出兵を「義挙」と認め50万両(テール)の賠償をすることで決着した。
これは琉球の帰属問題で日本に有利に働き、明治政府は翌1875年琉球にたいし清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。また清は以後日本の清国領土簒奪への警戒感を持ち北洋艦隊建設の契機ともなった。